顕現後第4主日(2021年1月31日)の黙想(マルコ福音書1:21-28)

· みことば

2021年1月31日 顕現後第4主日の黙想

 

【讃美歌】教会讃美歌 276番

 

【主日の祈り】
慈しみの神様。あなたは宇宙のすべてを御光で包み、御子を救い主として顕してくださいました。壊れたものを一つに戻し、迷いの中にいる私たちに真理を語ってください。創られたすべてが、御子を見て救い主を知ることができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

【聖書】
第1朗読 申命記 18:15-20 (旧p.309)
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 8:1-13 (新p.309)
福 音 書 マルコによる福音書 1:21-28 (新p.62)

 

【主日の黙想】
二度目の緊急事態宣言が出口の見えないまま続いている。その一方で、人々に希望を与えるためにという掛け声のもとに、差し迫った危機を前にしても計画されていた大規模なイベント・事業を続行させようとする様子が報道されている。しかし、既に世界は変わってしまった、かつて計画していたのと同じやり方に戻ることはもはや出来ないということを、多くの者が感じていると言えるだろう。そして、単に感染症への不安と恐れだけではなく、変わりゆく世界を前に自分がどうすることも出来ないという事実こそが、私たちを打ちのめすこととなる。もはや失意と諦めしか自分には残されていないことを思い知らされ、私たちは弱り果ててしまっている。しかし、打ちのめされ、弱り果てた私たちのところには、変わることのない「良い知らせ」が届けられていることを聖書は告げるのである。
今週の福音書では、弟子達を召し出した後、主イエスが人々の間で福音を語り始める場面となっている。主イエスが「神の国は近づいている」という福音(=良い知らせ)を語ると、会堂に集まっていた「人々はその教えに非常に驚いた」(22節)とマルコ福音書は伝えている。福音書の全体を通して読んでいくとき、人々のこの反応は必ずしも喜びによる驚きだけではなかったことが分かる。むしろ、この驚きはやがて、主イエスを拒絶し排除することへと結びつくものであることが明らかになってゆくこととなる。実はその結末は、この箇所の終わりで汚れた霊と対決した主イエスについて会堂に集う人々が「皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。」」(27節)と語っている様子の中に既に垣間見えているとも言えるだろう。会堂に集まっていた人々にとっては「新しい」教えは必ずしも喜びをもって歓迎すべきものではなかった。その人々にとっては、自分達の知らない「権威ある新しい教え」は、自分達の慣れ親しんだ世界を脅かす力、見知らぬものへと変えてしまう力でもあった。福音書の物語が進んでゆくにつれて、会堂に集まった人々が驚いた主イエスの「新しさ」は、彼らにとっては憎むべきもの、排除すべきものとなってゆくのだった。
確かに、主イエスのもたらされた「新しさ」は私たちの慣れ親しんだ世界を変えてゆくこととなる。私たちが生きているこの地上の世界とは、私たちの命を脅かす様々な目に見えない力が猛威を振るうところである。この世界の中で私たちは、それらの力を恐れ怯えつつも、為す術もないままにただ危機が過ぎ去ることを願うことしか出来ずにいる。ところが今週の福音書では、命を脅かす力と主イエスは対決し圧倒されることを伝えている。私たちの命を守り生かす力が、主イエスによって私たちの生きるこの世界に与えられたこと、それはまさに主イエスが伝える「神の国は近づいた」という良い知らせそのものであった。そして、私たちの命を守り生かすその力とは、主イエスを通して働く神の愛に他ならない。「神の愛する子」である主イエスの教えが伝えられるところ、この神の愛が私たちの命を脅かす力を圧倒し、恐れと不安に支配された私たちの生きる世界を変えてゆくことを聖書は伝えるのである。
しかし、会堂で主イエスの「権威ある新しい教え」に驚く人々は、主イエスが何者なのかをまだ知らない。神の愛がもたらす「新しさ」は、彼らにはまだ脅威として受け取られるのみである。主イエスが神の愛する子であることを人が知ることになるのは実に主イエスが裏切られ、鞭打たれ、罵られ、十字架で息を引き取った後のことであった。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(マルコ15:39)
十字架の出来事を通して、主イエスはご自身の命を私たちのために分かち合われた。主イエスの命を受け継ぐ私たちは、主イエスと同じく神の愛する子の一人とされている。そして主イエスによって私たちに与えられた神の愛は、私たちの生きる世界をそして私達自身を新しいものへと変えてゆく。神の愛は、自分を守るためには奪い合い傷つけ合わずには生きられない私たちを、分かち合い、支え合うことで生きる新しい命へと変えてゆくのである。それはまさに、私たちへと届けられる「良い知らせ」に他ならない。
恐れと不安が支配する時代の中で私たちは今生きている。しかしその一方でまた、かつて「たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(28節)主イエスの良い知らせは、今を生きる私たちのところにまで届けられている。それはつまり、私たちの命を脅かす力と対決し圧倒する神の愛もまた、今を生きる私たちのもとへ及んでいるのである。主イエスのこの良い知らせが伝える恵みと喜びに支えられて、私たちのそれぞれの日々を歩んでゆきたい。

 

【祈り】
主なる神よ。十字架を通してあなたの愛する子・主イエスの命を私たちに分かち合ってくださったことを感謝します。あなたの愛によって私たちが満たされる喜びで、不安と恐れの中にある私たちの日々を支えてください。私たちの救い主、主イエス・キリストを通して祈ります。アーメン