聖霊降臨後第23主日(2020年11月8日)の黙想(マタイ福音書25:1-13)

· みことば

2020年11月8日 聖霊降臨後第23主日の黙想

【主日の祈り】
正義と愛の神様、あなたは、御子の言葉で私たちの生涯を照らしてくださいます。なくてはならないその光を受けて、私たちが他の人々の必要にも気づくことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

【聖書】
第1朗読 アモス書 5:18~24 (旧p.1435)
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 4:13~18 (新p.377)
福 音 書 マタイによる福音書 25:1~13 (新p.49)

【主日の黙想】
教会の暦は、通常のカレンダーよりもほぼ1ヶ月早く、クリスマスに備えるアドベントの時から、新しい年となり、礼拝で読まれる福音書の箇所も次のものへと移ることになる。今年であれば、11/22でマタイ福音書が終わり、11月最終週の11/29が待降節第1主日となり、マルコ福音書の年へと移ることになる。
およそ8か月以上にわたって新型コロナウイルス感染症の蔓延によって振り回された2020年も11月も2週目を迎えることとなった。少し早いがこの2020年を振り返るならば、今まで積み重ねてきた計画や予定を実現していくための様々な方法論・ノウハウがそのままでは通用しないこと、あっという間にそれらの価値は古びて過ぎ去ってしまうことを痛感することとなった。しかしまた一方で、人と人との信頼において重要な事柄、支え合い分かち合うことの意義は、どのような状況にあってもその価値を変えることがないということもまた実感することとなった。私たちは自分の力だけで未来への希望を作り出すことが出来るのではないことをあらためて思い起こすことになったと言えるだろう。
教会の暦の1年の終わりの季節にあたっては、伝統的に「世の終わり」について語る聖書の箇所が取り上げられてきた。それは、第一に「暦の終わり」の季節において、「世の終わり」に思いを馳せる、という意味がある。そしてまたそれは同時に、新しい暦を迎え、主の降誕を「待つ」季節に入るにあたって、私たちキリスト教会は、主イエスが再び来られる時、再臨の時を今まさに待ち続けているのだということを憶えるためでもある。
これまで、毎週の福音書の日課ではしばらくの間主イエスが都エルサレムの神殿で宗教的権威者たちと論争しつつ人々に教えを語るという場面が続いてきたが、教会の暦の終わりを迎えるにあたって、福音書の日課もその次の箇所、主イエスは神殿を出て、弟子たちに向かって「世の終わり」について教える箇所が選ばれることとなる。物語の中では、主イエスが逮捕され十字架で処刑される出来事が間近に迫ってくる緊迫感をこれらの「世の終わり」に関する教えからは感じ取ることもできるだろう。しかしそれは単に私たちが考えるような「終わり」への不安と危機感に関するものだけではなかった。むしろそれは、私たちの人生に新たな命を吹き込むこととなる出来事について語るのである。
今週の福音書は、古来よりいろいろな解釈がされてきた。たとえば、ここで登場する「油」というのは、私たちが終わりの日に備えて保持しなくてはならない信仰のことである、というのが伝統的な解釈であった。たしかに、このようにたとえ話に登場するモチーフのひとつひとつが別の物を象徴しているとして解釈することは、私たちの信仰生活に対してより分かりやすい教訓を与えることができるという意味では大変役に立つと言える。しかし、そうした解釈の仕方は時として譬え話全体の持つメッセージをかえってわかりにくくすることも少なくない。
この箇所のたとえ話が示すもの、それは「主イエスに出会うその日その時が、いかにかけがえのない時であるか」ということを私たちに強く語っているのである。主イエスと共にあるとき、それは、婚礼の祝宴のように、喜びに溢れた時である。その時は、わたしたちがかつて経験した他のいかなる時によっても代え難いほどの素晴らしい時である。そのことを私たちに語っている。
かけがえの無いほどの素晴らしい時、それは過ぎゆく時とは無関係に、時と空間を飛び超えて、私たち一人ひとりに働きかける力をもっている。それは、主イエスの十字架と復活が、はるか2000年近く前の出来事でありながら、今という時を生きる私たちに、大いなる力をもって働きかけているという事と同じなのである。実に、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事、それは他のいかなる時とも代え難い、かけがえのない時であり、過ぎ去ってしまうものに翻弄されている私たちに新たな命を吹き込む時である。かけがえのないその時は決して過ぎ去ってしまうことなく、私たちに希望を与え続ける力を持つ出来事となって、私たちを励まし続けるのである。
聖書は「目を覚ましていなさい」と語る。私たちは、過ぎゆく時の中で生きなければならない存在に過ぎない。しかし、過ぎゆく時の中で私たちが主イエスと共にあるその日その時を憶えて、しっかり見つめるならば、私たちはまるでその日に生きているかのように、今という時を生きることができるのである。その時、主イエスとともにある日の喜びは過ぎゆく時を超えて、私たちの「今」を支える力となるのである。
私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられている。けれども、聖書の言葉を通して、私たちの思いと力とを超えて、神の業は全ての労苦を報われるかけがえのない時を私たちに与えて下さるのだということを知ることとなる。その時私たちは、たとえ見える世界には計画したような期待したような変化がなかったとしても、私たちの日々は確実に新しいものへと変えられていることを、また知ることとなる。それは、今私たちが主イエスと共にある終わりの時を生きるかのごとく、同時にこの過ぎゆくこの世の中の日々を歩むことができるということでもある。主イエスと共にある時、全ての労苦は報われるという希望を抱きつつ、私たちに与えられた日々の生活を生き抜いていく力を、主イエスの十字架を通して私たちは与えられているのである。主イエスの十字架を仰ぎ見つつ、過ぎ去ることのない希望を与えられて、それぞれの日々を歩んでゆきたい。

【祈り】
主なる神よ。十字架の死から新しい命へと歩まれた主イエスが私たちと共におられることに感謝します。十字架によって示された過ぎ去ることのない希望で私たちの日々を満たし、私たちを力づけてください。私たちの救い主、主イエス・キリストを通して祈ります。アーメン