聖霊降臨後第7主日(2020年7月19日)の黙想(マタイ福音書13:24-30, 36-43)

· みことば

2020年7月19日 聖霊降臨後第7主日の黙想

【主日の祈り】
憐れみ深い裁き主・まことの神様。あなたはあなたの子どもたちを確信と憐れみのうちに顧みてくださいます。御子の道に根ざすことができるように、御国に生きる私たちをあなたの霊によって養ってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


【聖書】
第1朗読 イザヤ書 44: 6~8 (旧p.1133)
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8:12~25 (新p.284)
福 音 書 マタイによる福音書 13:24~30, 36~43 (新p.25)

【主日の黙想】
今週に入り、都内では新型コロナウィルス感染症の拡大が続いている。4-5月の緊急事態宣言下での、様々な事柄を犠牲にしてまで続けた日々は一体何のためであったのか、いや今もなおそうした痛みを負い続けているのではないか、という思いも湧き上がる。自分はこんなに注意を払って辛抱し努力しているのになぜ期待通りに事は進まず、むしろこのような結果に直面するのかという思いはさらに、病の内にある者に対する他罰感情と犠牲者非難を引き起こすことすら起こる。もちろん、怯える者が苦しむ者を傷つけ憎悪をぶつけたとしてもそれは何の意味もない怒りでしかないことをまた、私たちは知っている。それにもかかわらず新たに沸き起こる不安と怒りに対して、私たちはどうすれば良いのだろうか。
今週の福音書で語られる「毒麦のたとえ」を読む時、不安や恐怖を感じる者もいるだろう。それは特に後半の「たとえの説明」で、滅びの予告とも言えるような文言によるところが大きいと思われる。「集められて火で焼かれる」「燃え盛る炉の中に投げ込ませる」という言葉は、確かに恐ろしいイメージを読む者に与えている。
しかしこの説明での主眼はそうした恐ろしいイメージで人を怯えさせることとは言えない。なぜならばその最後では「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」という希望の約束で締めくくられているからである。つまりこの説明はむしろ、痛みを負わされ侮られ苦しめられた者たちが報われる時は必ず来ることを約束し励ます言葉なのである。そしてその約束と励ましの言葉を受け取って今一度前半の「たとえ」の本文に目を向ける時、この譬えもまた、励ましに満ちたものであることに気付かされることとなる。
直線の箇所で語られている、「種蒔き」のたとえとその説明に続いて、ここでも再び「種を蒔くこと」が取り上げられるが、前段落と異なり、ここでは蒔かれた麦の種が芽を出し成長して、実ることが前提となって展開されてゆく。むしろここではその実りが、期待したものとは全く異なるものとなるリスクが問題となっている。
ドクムギというのは世界中の温帯に分布するイネ科の雑草で、若い内はコムギと区別化しにくく、根もからみあっていてコムギも一緒に抜いてしまう危険があった。しかしたとえに登場する僕(しもべ)の「行って、抜き集めておきましょうか」という言葉の背後には、実っても収穫できないドクムギがある畑の世話をする努力は無意味なものとなることを不安に思い恐れたのではないだろうか。そして、そのようなリスクをできるだけ早く排除しておくことが、自分達の収穫を安定させるはずだという思いがあったのではないだろうか。そうした焦る思いは私たちにとってはあまりにも当然のことであり、また身近な感情であると言えるだろう。しかしこのたとえでは、そうした性急な焦りの言葉に対して、全く意外な「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」という忍耐と寛容の返事を聞く事となる。読者である私たちが期待していた応えとは異なって、人の予断に完全なものなどないこと、だからこそ冷静に時を待つことの重要さが諭され、そして収穫の時を迎えて努力と労苦は無意味に終わることはないことが示唆されることとなる。
実に、私たち自身の予断が不完全で不充分あるからこそ、私たちは自分達の内にどうしようもない不安と怒りが沸き起こるのである。その意味で、期待通りに事が進まないことへの不安と怒りは、私たち自身の判断の不完全さと不充分さそのものが生み出すものでもある。そうであるだからこそ、私たちはその不安と怒りに向き合うことを避けずにはいられず、苦しみ怯え、弱り果てた者を見つけて、それをぶつけずにはいられないのである。しかし、それをどれだけ繰り返しても、自らの内から生み出される不安と怒りを払拭することは出来ない。それはまさに私たち人間の弱さの姿である。しかし、その弱い私たちに向かって、必ず収穫の時は来ること、努力と労苦は無意味に終わることはないことを主イエスは語りかけられる。
そしてその主イエスは自ら、互いを傷つけ合わずにはいられない私たちの不安と怒りを受け止め、最も空しい努力と労苦であるはずの十字架へと向かわれた。しかし全てはそこで終わることはなかった。十字架を通して分かち合われた主イエスの命は、先の見えない時代の中で今を生きる私たち一人一人を励まし力づけその日々を満たし、支えているのである。不安と憎悪が渦巻く時代の中にあっても、主イエスの命によって支えられつつ、それぞれに託された使命を果たしてゆきたい。

【祈り】
主なる神さま。私たちが不安と怒りに囚われる時であっても、私たちに主イエスの言葉を届けてください。そして十字架で分かち合われた主イエスの命によって私たちを支え、主の恵みが私たちに備えられていることを思い起こさせてください。私たちの救い主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン