説教要旨『希望は欺かない』

ヨハネ福音書十一章十七-二十七

説教者 宮本 新

 

聖書には固有の希望へのまなざしがあります。それは何が希望であるかという中身よりもむしろ、希望がどこに由来するのかです。詩編ならば「主よ、それはあなたです」となり、今朝の福音書のマルタの言葉はその信仰に通じています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(二七節)。メシアとはキリストのことです。このキリストに向き合うところから、苦難と希望の意味を見つめていこうとするのが聖書が示す「希望の作法」だと思います。

 

ラザロは病気になって、亡くなります。イエスはそこに居合わせておりませんでした。四日目にイエスが到着したというのは、マルタにとって、「遅すぎた」到着でした。彼女の言葉には悔しい思いや非難めいた口調さえ感じられます。このような神様やイエスへの異議というのは意外にも、旧約以来の深い伝統があります。たとえば、詩篇の六編で詩人も同じように訴えます。「主よ、いつまでなのでしょう。主よ、立ち返り、わたしの魂を救い出してください・・・苦悩にわたしの眼は衰えて行き、わたしを苦しめるもののゆえに、老いてしまいました」。これが祈りなのです。詩編からマルタに共通するのは、自分の大事な思い、そして悩みや訴えをどこへ持っていくべきなのかを教えています。それは「主よ、あなたです」。

信仰にも、プロセスや段階、そして成熟や深みがあることを思います。単純率直な信仰や恵みの体験もありますが、深い陰影に満たされたものもあります。自分の思いや期待が裏切られ、自分の手持ちの信仰が枯れ果てたときに、出会う神について福音書は証しします。ラザロは確かに死んだのです。しかしマルタは言います、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださいます」とイエスに対し心を砕いて、期待する姿勢があらわれています。自分が失望した、裏切られた、遅すぎたと思って、それを結論とするのとは、なにかが違うのです。むしろラザロが亡くなり、マルタはここからイエス・キリストの信仰が芽生えているようです。それが「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」というマルタの信仰です。

 

九死に一生をえたラザロもやがて死を迎えます。その点、マルタとマリアも、同じです。しかしこの兄弟姉妹は、この先の生死をイエスにおゆだねすることになったことでしょう。その点、もう悩まなくていい。あるいは、どんなに悩んでも大丈夫だ、というべきでしょうか。私たちは苦難も忍耐も練達も、そして希望さえも自分のものだと思っているものかもしれません。私たちの側は、大いに揺れ動き、時に失望し、腹を立てたり、悲しんだり、悩んだり逡巡するものです。しかしキリストの信仰と希望にはその次があることを知らされます。イエスを信じ、神を信頼することに、自らの苦難も、忍耐も、練達もうちに含めていくのです。これがキリストに向き合うという希望です。イエスのご受難、十字架と死を覚える四旬節です。私たちはこのキリストと共に沈み、このキリスト共によみがえることに希望を置いていきたいと思います。そう約束されているものだからです。(2017.4.2.)